特別な誕生日に贈る不確かな気持ち。






雨が上がったばかりの空気は僅かに水気を含み、しっとりと肌に吸い付くようだ。屋上に駆け上がっ
た勢いのままフェンスに寄りかかり、市竺(いちじく)は笑った。地面に幾つかの水溜まりが出来ていて、その上
をぱしゃぱしゃと走るものだから、ズボンの裾に深い染みの色が付いている。俺は水溜まりを避ける
ようにしてフェンスに近づき、市竺の隣に寄った。
「雨上がってよかったな」
どしゃ降りだった朝とは打って変わってうっすらと光の差す空を見上げながら、笑顔の市竺が言う。
「だな。でもさ、お前は雨好きなんじゃないの?」
「そうだけど」
市竺は雨が嫌いで、雨が降ると少し悲しそうな顔をするから、いつからか俺は雨が嫌いになってしま
った。でも、こんな風に雨上がりの時はまだ心地よく思えて、自分はまだ雨が好きなのだと実感する。
「ってかさ」
「うん?」
「俺達もう三年だって。これってどーよ?」
「どうって?」
俺がそう訊くと市竺は口を尖らせ、「早過ぎだろ」と呟いた。
「……」
市竺が手を伸ばしフェンスに寄りかかると金網が貴金属特有の音を響かせた。俺は市竺を横目で窺い、一
体彼が何を言わんとしているのか思索してみる。口を尖らせているということは何か不満に思うことが
あるのだろう。そう思って、曖昧だが肯定の言葉を吐いておく。
「……だな」
「だな、って。軽っ!」
「何だよ。今更高校生活やり直したいとでも言うつもりか?大体、この間は早く自活したいとか言ってた
だろ。1人暮らししたいとか、引っ越すなら都会とか言ってさぁ」
「うぐ」
俺がそう指摘すると市竺は口を噤み、頬を膨らました。ちょっと、小動物の様で、可愛らしい。
「違う」
市竺が言った。グラウンドから野球部の掛け声が遠く聞こえてくる。
「何が?」
そう訊ねると、市竺は黙り込み、複雑に表情を歪めて言葉を探しているようだった。沈黙の間に野球部の
掛け声だけが耳に聞こえてくる。一瞬、雨が止んだ後のぐちゃぐちゃのグラウンドが思い浮かんだ。再び市
竺の様子を窺うと、市竺は視線を俺とは別の方向に外して言う。
「違うんだって」
静かにぽそり。そう呟いたきり、市竺はそれ以上何も言わなかった。



 その夜、市竺からメールが届いた。
『明日、駅前午後一時集合』
そんな決定事項だけの文章だけである。俺は唖然と画面を見つめていたが、そのうち可笑しくなって1人
笑ってしまった。



 休みの日に市竺と会うのは久々だった。別に俺と市竺は年中一緒にいる程親密な間柄ではない。かと
いって只のクラスメートとも言い難い。不思議な友達関係である。約束通りに駅前に行くと、既に市
竺が待っていた。
「何だ、早いなぁ」
「馬鹿。当たり前だろ。ほら、行くぞ」
俺が五分遅れたことを笑って誤魔化すと、市竺は薄ら笑いを浮かべながら俺の肘を小突いた。そのまま
出入り口をくぐり、外へと歩き出す。用件は未だ聞かされていない。
「おい。一体どこに行くんだよ?俺、今日のこと何も聞かされてないんだけど」
「言ってないんだから、知らないのは当然だろ。買い物だよ買い物っ」
「買い物ぉ?」
市竺は駅前のショッピングモールなるビルへと俺を引きずって行った。俺は市竺と買い物なんかする日
が来るとは夢にも思わなかったので、またも唖然とされるがままに歩かされ、気付いたときにはビルの
中枢である雑貨や洋服などが売られているスペースに居た。
「こ、ここは……」
見れば、人、人、人。黒子の山が賑わう店内を見て俺は悲鳴を上げた。しかもただ人が多いならまだしも、
俺の苦手な女子の多いこと多いこと。
「よぉーっし!行くぞっ」
「は、えぇ?」
市竺は腕まくりなんかしてやる気満々のようだ。荒々しく俺の腕を引っ張りながら店内の奥の奥の方へ
と突き進んで行く。視界にカラフルな色が弾け、ハートやらスターやらの可愛らしいマークが見えた。
女の子の店ってどうしてこんなにピンクなのだろうか。音楽も可愛いし、どこからか甘い香りもする気がする。
「いやいや、何を考えてるんだ俺……!」
「ん?何か言ったか??」
「あ、いや別に?それより、お前なんでこんな所来たんだよ?」
きょろきょろと何かを探るように首を動かしている市竺に俺は訊ねた。いくら市竺が女の子同様に可愛ら
しい容姿をしているからって、まさかリボンの付いたテディベアや春もののワンピースを買いに来たわけ
ではないだろう。俺が訳も分からず首を傾げていると市竺がひょいっと手を伸ばた。
「あっ、これ可愛い」
「え?」
市竺はキャラクタもののぬいぐるみを手に取りこう言った。
「彼女へのプレゼント。一緒に選んでくれない?」



 ようやく買い物が一段落したので、俺達は飲食が出来るスペースで休息を取っていた。俺はラーメンで市竺
 はポテトと冷麺を食べている。朝から何も食べていないと言う彼は、終始黙って、真剣に食事を続けていた。
「……よく食うね。ポテト頂戴」
「いいよ。でも代わりに追加注文してきて。あっ、お好み焼きがいいなぁ」
いつもならガムの一つもくれない市竺がポテトをくれた。それだけで俺は少し市竺が分からなくなる。
どうやらいい具合のプレゼントが見つかったのでご機嫌がいいようだ。彼の隣にある紙袋の中にはピン
クの包装の施されたプレゼントが入っている。中身はペアのマグカップだ。
「……」
俺はポテトを一本くわえながら注文をするために席を立った。市竺に良いように利用されているような
気がしつつも、悪い気はしない。今回も、何で俺がと呟きながらも、一緒になってプレゼント選びを手伝っ
てしまった。情けなくもあるが何故か前から市竺の我が侭には上手く抵抗出来ない。カウンターに行き、
定員さんに注文を頼むと、直ぐに席には戻らずお好み焼きが出来上がるのをカウンター前で待つことにした。
「全く……人の貴重な休日を自分の彼女へのプレゼント選びに付き合わせるなんて、嫌なやつ」
市竺の彼女。確か一年前から付き合っている。切り口の揃った長い髪を片方に流した今時そうな子だ。前
に会ったが、結構可愛い。一体どこで出会ったんだか知らないが、ふらふらしている市竺には手に余るタ
イプのようなきがする。
「っていうか……彼女へのプレゼントぉ?」
俺は改めてその意味を考えた。いきなり声を強めた俺に店員が怪訝そうな目を向ける。
普通、そういうのに人のこと呼び出すだろうか。しかも彼女。彼女へのプレゼント。俺は何故かそこに
拘っていた。久々に休みの日に市竺に誘われたかと思えば、こんなものに付き合わされるはめになると
は考えもしなかった。確かに、何かなければ誘われるなんてことも無かっただろうが、少し酷くはない
だろうか。俺は笑顔の裏でそんなことを何度も考え、確実にやり切れない思いを感じていた。プレゼント
なんか、何だっていいだろ。何も悪くない彼女にさえ悪態を吐く。そんな俺自身に自己嫌悪も抱くが、
そうさせる市竺本人が一番性悪なのだ。そうだ。全部市竺が悪いんだ。そう思いこむことにし、俺はふ
と市竺の方を見た。
「……」
市竺は頬杖をし、真っ正面を向いている。その横顔が何とも整い過ぎて俺は不本意にも見とれてしまった。
遠くから見ると更にその線の細さや色白い肌が目立つ。
「……なんだかなぁ」
黙ってると人離れした存在だなと思った。けれど、市竺本人は自分の魅力に気付いていない。いつもは自
分に自信満々で、我が侭で、人懐っこいくせに。肝心の所では一歩後ずさってしまう。そんな性格だった。
いつもは怠そうに垂れている瞳も、今は何か驚いたように見開かれている。そこで俺はハッと息を呑んだ。
驚いたように、ではなくて。市竺の目線の先には驚かざるを得ない光景があった。
「……嘘だろ」
同じく休息の為に設置されたベンチに座るカップル。二人親しげな男女は、ソフトクリームをお互いに
食べさせ合っている。女の方に、見覚えがあった。綺麗に切り揃えられた長髪が揺れている。その女は、
市竺の現在付き合っているはずの彼女だった。市竺はこれを見て固まっていたのだ。これが真実か虚像か見極めるこ
とが出来ずに固まっている。否、既に理解の域には達してはいるが、感情がついていけていないといった
感じだ。ただ口をぽかんと開け、その光景を見ている。
「お客様、お待たせいたしました」
「あっ、はい」
俺は不意に呼びかけられカウンターへと向かった。受け取りのやり取りをしている間もどくどく胸が嫌
な鼓動を立てて煩い。
「――のお買いあげになります」
「は、はい……」
財布から言われたとおりの金額分、お金を出す。市竺は一体どんな表情であの二人を見ていただろうか。
今何を思っているだろうか。市竺、お前の彼女はお前に気付いてはいないのか。こうしている間にも背後
が、市竺が気になって仕様がない。買い物どころではなかった。
「有り難うございました〜」
お好み焼きを受け取ると、即座に振り返った。ショックを受けただろう市竺が心配で心配で仕方がなくて。
「い、市竺」
俺は市竺に駆け寄った。ベンチに座る二人の姿はもうない。会計を済ましている間にどこかへ移動したよ
うだ。俺が声をかけると市竺はゆっくりと顔をこちらに向け、お好み焼きの乗ったトレイを受け取った。
「あ……ありがと」
「い、いや。その、」
上手く言葉が出ずに口ごもる。更に、喉の奥に粘っこい何かがあるのを感じた。市竺はそんな俺を見て首
を傾げると、少しだけ口元に笑みを浮かばせた。本人は「笑っている」つもりなのかも知れないが、到底
そんな代物には見えない。力無く口元を歪めたように、俺には見えた。どうやら市竺は俺があの二人に気
付かなかったと思っているらしく、気丈に振る舞っているらしい。いつもと違う自分を悟られぬように演
技をしている。そんな姿が尚更弱々しいものに見えて、俺は心臓の辺りがきつく締め付けられるような感
覚を感じた。
「お好み焼き、美味そうだなぁ!」
あの瞬間を目撃していなかったら、俺は確実にこの笑顔に騙されていただろう。市竺の、演技力はなかな
かのものだ。俺は唇を密かに噛み締めた。こんな茶番に付き合うかどうか。何もなかったかのような振り
をする市竺に付き合ってやることが彼の為になるのかどうか。
「……市竺、あのさぁ」
「なに?」
市竺のまん丸い瞳が直に突き刺さる。それに囚われれば、視線を逸らすことが出来なくなる。次の言葉を
言わせまいといった市竺の視線にたじろいで、俺はぎこちなく苦笑を漏らした。
「いや……何でもない」
「……変なやつ」



 市竺、お前に訊きたい。お前はどんな顔をして彼女にプレゼントを渡すのだろうか。ハートマークを連
 想させる、猫の尻尾がメインにデザインされたとても可愛らしいカップ。数ある候補の中から市竺が一生
 懸命になって選んだ末に決まった物で、市竺自身も凄く気に入っている。彼女も気に入ってくれるはず  だと市竺は笑った。
「……」
市竺のあの歪んだ笑顔が脳裏に焼き付いて上手く拭うことが出来ない。このままお前は何も無かったこと
に出来るのか?彼女のことを許すことが出来るのか?俺は何に対して怒っているのだろうか。市竺を裏切った
彼女に対して?それとも、それを知っているにも関わらず黙視する市竺に対して?それとも――?



 天井を見つめた。此処は既に俺の自室。ベットに四肢を放り投げ、天井を仰いでいる。光の色は決して
 白くはない。照明の色は淡い橙色だと、その事に初めて気付いた。何か考えようと藻掻くが、考えれば考え
 るほど思考の回廊巡りだった。俺は昔から考えることが得意ではない。さらに考えたことの三割も相手
 に伝えることが出来ないのだから、考える意味もない。ついには考えることも嫌になり、目元を腕で覆った。
 時計の音がする。時計の針が等間隔に時を刻んでいく。時は誰にでも平等だ。そんな当たり前のことが
 何故か哀しい。何だか何も考えたくない。このまま眠ってしまおう。部屋が明るくても俺は眠れるのだ。
 そう思ったが、俺は瞳を開いた。首だけを動かし、机上に置かれた卓上カレンダーを見上げる。市竺が言っ
 ていた。彼女の誕生日は5月8日。なんだ、もうすぐじゃないか。俺はせめてその日まではこういうこと
 が起こらないでいて欲しかった。そうしたら、もう少しだけ市竺は彼女と楽しい時間を過ごせたはずなのに。
 どうしてこんな酷いことが起こるのかさっぱり分からない。意味不明。でも、どう足掻いたって
 時間を遡ることは出来ない。市竺は今頃どうしているだろうか。あの後、直ぐに俺達はビルを出た。取り
 留めのない会話をして別れ、元々用のなかった俺は自宅に直帰したが、市竺はどこかに寄り道をしただろうか。
 彼女の誕生日は5月8日。さらに、俺はもう一つのことに気付いた。



 それから一週間経った頃、俺は屋上へ昇っていく市竺の姿を見掛けた。随分思い詰めたような表情をして
 いたのが気になり、追って屋上へと昇った。少し間を置いて屋上に出ようと思ったため、一旦扉の前で停止
 する。思えば、市竺とはあれから会話という会話をしていなかった。元々会話が多い付き合いではなかったし、
 会えば話をするといった感じだったから、尚更と言えば尚更である。俺は深呼吸を数回繰り返すと、静かに
 扉を開けた。目の前に広がる馴染んだ風景。フェンスに寄りかかる市竺の後ろ姿。沈みかけた夕陽が眩しいく
 らいに輝いている。一瞬、笑顔で振り返る彼の姿が目に浮かんだ。しかし、実際はきっと泣いていたのだろう。
 背後に人の気配を感じ取った市竺がこちらも見ずに目元を拭う動作を見せた。
「……何だよ。お前かぁ。びっくりさせんなよぉ」
「さっき階段で見掛けたからちょっと気になって」
いつも通りに隣へ並ぶ。市竺の左側が俺の定位置。多分、左側から見る市竺が好きだから。
「泣いてたのか?」
「はぁ?何で泣くわけ。理由がないじゃん」
上擦った声でよくそんな嘘を吐けるものだと俺は思った。俺が知らない間にまた何かあったのだろうか。未だ彼
女と付き合っているのだろうか。さすがにもう別れただろうか。目撃したのはこちら側が一方的にだし、彼女自身から
は何も言ってこないだろう。市竺に彼女を責められる度量があるとも思えない。そういった中途半端な葛藤が一
番人の心を苛ませるのだ。そのせいか、市竺は酷く疲れているように見えた。泣きたくても泣けない。どうして強がっている
のだろう。
「市竺……理由がなくたって人は泣くよ」
「え?」
「綺麗な物を見たって人は泣く。例えば今日の夕陽。いつも綺麗だけど、今日は格別に綺麗だ」
俺は夕陽を見ながら言った。別に格好付けたくて言った訳じゃない。強いて言えば、素直に市竺が泣けるように。
でも、逆に俺の方が泣いてしまった。夕陽を眺めていたら本当に目がちかちかしてきて。俺ってば、格好悪い
なぁ、と俯き苦笑する。
「夕陽って目に染みるなぁ」
「……そうだな」
同じようにして夕陽を見つめる市竺の横顔はとても綺麗だった。目元に少し涙の乾いた跡があって、頬は少し
上気している。その跡を見ると俺も哀しくなる。
「やっぱ泣いてたんじゃん」
「……悪りぃかよ」
今度は顔を思いっ切り顰めてぶっきらぼうにそう言った。何だか、久しぶりに素の市竺を見た気がする。無駄な
強がりも、偽った笑顔も市竺には全然似合わない。
「どーせ、彼女と喧嘩したとか別れたとか、そんなだろ」
俺がそう言うと市竺は笑ってしまうくらい驚いた顔をした。次に「何でお前が知っている」とでも言うような不
満げな表情。俺はそんな市竺の顔を見てつい吹き出してしまった。
「馬鹿だなぁ」
「な、何で知ってるんだよ」
「俺、見たんだ。一緒にプレゼントを買いに駅前ビルに行っただろ?その時に知らない男を連れているお前の
彼女を見た」
「……そっか」
「でも、知ってるのはそれだけ。もし良かったら話してくれないか?相談にぐらい乗らせろよ」
「……うん」
市竺は俺にかいつまんで話をした。結果的には彼女とは破綻。つまり別れた。元々無理して付き合っていた感
じの市竺にとっては今回のことは決定打に等しかった。彼女を問いつめた所、相手の男は前に付き合っていた
男で、最近寄りを戻したという。案外よくある話だが、市竺を傷付けるのに十分過ぎる内容だった。
「別れたというか、振られたというか」
「残念だったな。せっかくプレゼント買ったのに」
「そうだな。せっかくお前も選んでくれたのにな。でも、このあいだ話したとき、最後にちゃんと分かり合えたから。
プレゼントも渡してきた。元カレと使ってくれてもいいしな」
市竺はそう言い、寂しそうに笑った。彼女は確かに市竺を裏切る形になってしまったけれど、きっと市竺のこ
とが嫌いになってしまったわけではないのだろう。市竺は優しい。優しすぎる。市竺は彼女のことが凄く好
きだったんだと思う。問いつめた時だって、彼女がひとつ嘘でもついて誤魔化してくれればきっと市竺は彼
女を許したと思うし、関係も絶つことはしなかっただろう。俺にはそんな感情があるのだろうか。ふと、疑
問に思った。人を想って泣くということがどれ程辛いことか、俺には分かるのだろうか。市竺が話し終わる頃、
外はすっかり日が暮れていた。遠くの住宅に光りが灯っているのが見える。
「っはは。何か格好悪りぃな俺。お前にこんなこと言ったってどうしようもないし」
「格好悪くなんかないよ。そのくらい、普通だろ。それに、俺達友達なんだし……そういうこともちゃんと
相談して欲しいよ。1人で思い詰めて、こんな所で泣いてる姿、見たくないんだ。話すことで、人に聞いて
貰うことで気持ちが落ち着くことも絶対あるし、もっと頼って欲しいんだ」
「……」
俺を見つめるまん丸い目ン玉。黒味の強い綺麗な瞳孔。少し焼けた肌に夜風が掠れていくような感覚。
俺は今、きっと身体中熱が籠もっているいるような気がする。抜けない熱が身体中に。
「は、はは。お前、すっげぇ良い奴」
「笑うなよ。冗談じゃない」
「冗談だとは思ってない。……取り敢えず、ここから退散しようぜ。あまり遅くなると警備員に見つかっち
まう。ただでさえ立ち入り禁止なんだからここ」
「それもそうだな」
俺達は急いで校舎を後にした。ふと、二人で校舎を出るのも久しぶりだと思った。



 「なぁ。せっかくだし、寄り道していかないか?」
「寄り道?」
時間は七時を少し過ぎている。市竺がそんなことを言うなんてあまりにも珍しく、俺は操られるように頷
いた。寄り道とは、市竺と俺の家の中間地へと続く方向。且つ遠距離だけれど二人が最も長く一緒に帰れ
る道だ。
「なんかさぁ……」
市竺が呟いた。小さな声が耳を掠める。
「俺、何もなくなっちゃったって感じがするよ。いや、でも……」
隣を静かに歩く市竺は、朧気に、まるで自分に話しかけているみたいな口調で続ける。
「元々何もなかったのかもなぁ」
一体どうしてそんなことを思うのだろうか。屋上での俺の言葉を聞いていなかったのだろうか。「何も
ない」という言葉が俺を揺さぶった。
「市竺にはさぁ」
「うん」
「俺がいるじゃん」
何とかそれだけ言うと、俺は気恥ずかしくなってしまい、それ以上何も言えなかった。市竺のいる方に、
顔さえ向けることが出来ない。
「……うん。ありがと」
振り向けない方から、市竺のそんな返事だけが聞こえ、俺の動悸が強く脈打った。



 五月の末、連続して続いた雨が止む気配を見せた放課後。雨が降り続いていたせいで、長らく屋上へ
 は昇れずに居たが、俺と市竺は久々に屋上へと出ることが出来た。雨上がりの水気を含んだ空気の香
 りと湿気った匂い。独特のまとわりつくような肌寒さに俺は胸一杯になった。妙に懐かしさを覚える。
 最近はからっと晴れた陽気も好きだけど、矢張り梅雨の時期の空気が何とも言えなく好きだ。特にこ
 んな風に雨雲の合間から晴れた空が覗くような天気は格段に俺を高揚させる。水の溜まったコンク
 リートの上をお構いなしに靴で渡った。ぱしゃぱしゃと水が跳ね、ズボンに深い染みを作る。そし
 てフェンスに寄りかかる市竺が隣にいて、いつもの俺達だと顔を綻ばせた。
「なぁなぁ」
「んー?」
「俺、ちょっと好きかも」
「へ?」
市竺が耳元で呟いた。俺の心臓はあり得ないくらいに弾み、一瞬呼吸の仕方を忘れただろう。あまりにも
不意打ち過ぎる市竺の行動に驚いてしまい、俺は不自然に首を傾げた。
「な、何の話?」
「何って……まぁ、何て言うか。そうだなぁ。例えば、雨上がりの空」
「雨上がりの空?」
「うん。俺、前は雨ってどちらかというとじめじめしてて鬱陶しいし、外出れないしで嫌いだった。で
も段々と嫌いじゃなくなってったんだよな。不思議と。なんか、雨が降ってると、俺は嫌なんだけど、
お前が楽しそうな顔してて……それが何か好きだったんだよな」
雨が降ると俺が楽しそうな顔をするから雨が好きになった?そう市竺は言った。でも、その科白はその
まんま俺の科白じゃないか。俺だって、気負いするくらいの晴天を「気持ち良い」とお前が嬉しそうに
笑うから、晴れた日が続くことが嬉しかった。お前が嬉しそうに笑うから、晴れた日が好きになったんだ。
「……」
「あとはさぁ、お前が隣にいるとちょっとフェンスが沈むだろ。その傾き加減が好き。きぃきぃって金
属の鳴る音も凄く好き」
市竺の言葉の一つ一つが俺の何かを崩していく。堅く絡み付いた鎖を解くよう
に。身体の芯のところで何かが溢れていくような気がした。
「今がずっと続けばいいのにな。悲しいことも辛いことも、ここにいると全部忘れられるんだ」
「――っ」
気付いたら俺は市竺の細い肩を抱き締めていた。既に決壊した理性の囲い。市竺の身体が腕の中にある。
肉付きの薄い背中も肩も、白い筋を逆立てた首筋も。男のくせにふわっと揺れる髪の毛も全部。俺の腕の
中に。強く、強く力を入れると市竺が小さな悲鳴を上げた。それでも離すなんてことはしない。
「ちょ、っと!は、な、せっ!」
抵抗虚しく、市竺の力では俺を押し退けることは出来ない。俺は馬鹿だ。ここまで来て。二年と一ヶ月。
ここまで来て、俺と市竺の関係を壊そうとしている。
「もうちょっとだけ」
「何の話だ〜!」
「あんまり暴れるなよ」
市竺の髪が横顔に触る。この甘い香りはシャンプーのものだろうか。それとも香水でも付けているの
だろうか。俺が抱いて、顎の所に頭がある。市竺はそんなに小さかっただろうか。
「市竺……」
俺は市竺をどうしたいんだ。こんな風に抱きしめて、次第に大人しくなるのが分かって。その後は何
をするのだろうか。大人しく抱き締められる市竺に対して、俺は一体何を。この感情は。この気持ち
は一体どこから出て、どこへ向かうのか。溢れ出したものが止まらない。せき止める術を知らない。
市竺に会うまでは、こんな気持ち、知らなかったんだ。
「なぁ」
「なっ、何だよ?」
「なんつーか。言いたいことが一つだけ」
俺は市竺の頭を抱え込んだままそのことを伝えた。
「俺の誕生日、実は今日」
「おれのたんじょーび??」
見上げた市竺の視線と俺の視線がぶつかった。予想以上の至近距離。突然のことに不意突かれ、つい
身体を離してしまった。けれど、市竺は距離を取るどころか逆に近づいてきて俺の胸ぐらを掴んだ。
「お前の誕生日、今日なの?」
「う、うん」
「ってことは、もう俺より一歳年上じゃん。俺、二ヶ月前に17になったばっかなんだけど……」
「知ってる……」
確か、俺はお祝いのメールを市竺に送ったはずだ。
「なんかショック……」
「意味分かんね」
「だって、年上とか……半年以上も。はぁ」
市竺は本当に衝撃を受けたらしく、フェンスに寄りかかりしゃがみ込んでしまった。そんなことよ
り、誕生日を忘れられていた俺の方がショックを受けるべきなのではないのだろうかと思う。
「ごめん。何も用意してない……メールも今更だしっ」
「別にいいってそんなの。」
「何か俺、彼女のことで浮かれてた。最低だ……」
そのことについては俺も多少むかつきはしたが、別に今頃どうも思っちゃいない。むしろ今日、市竺
と一緒に居られて嬉しい気持ちで一杯だった。
「さいあくだっ」
しかし、市竺は随分落ち込んでいるらしく、自分を叱責し、俺の胸に頭を押しつけてきた。そんな行
為をされると対応に困ってしまうのだが。
「大丈夫だって。プレゼントとか、俺いらないから」
「そうか?でもなぁ」
「……じゃあさ、『おめでとう』って言ってくれよ」
俺がそう提案すると、市竺の顔が次第に赤く染まっていった。何でここで照れるのか俺には分から
ず、良い提案をしたと思ったが、逆に悪いことを言ってしまったらしい。
「な、なんか……改まってそういうこと言うの、恥ずかしいな」
「そうか?」
市竺は口をぱくぱくと動かし、緊張しているらしい素振りで俺に向き直った。顔が赤くて、金魚のよ
うだと思ったが、笑わず市竺の言葉を待つ。
「じゅ、18歳の誕生日、」
「うん」
「お、おめでとう……ございます」
ぷしゅう
言い切ると、真っ赤に茹だった市竺から白い煙が頭から吹き出した。
「だ、大丈夫か?」
慌てて市竺を支え、顔を覗き込む。すると「大丈夫なわけあるかぁ!こンの鬼畜!」と頭突かれ俺は
見事に後ろに仰け反ってしまった。
「鬼畜ってなんだよ。別にお祝いの言葉言わせただけだろっ」
「言わせたとか言うな!もう忘れろ!」
するどい目つきで俺を睨み付けてくるが、それはとても可愛らしいもので全く恐ろしくない。むしろ
面白可笑しいというか、笑える。いつもの学校生活も、今も。何にでも真面目で、一生懸命な市竺。
そんな市竺を俺は好きになったんだきっと。言ってしまっても良いものかどうか、唇を噛み締めた。
「なぁ、市竺」
――もう一つだけ伝えていいかな?
「俺、お前のこと、」
市竺の瞳に俺の顔が写る。一瞬だけど、全てが止まったような緩い感覚。俺が言いかけた瞬間に、市
竺は頭上目がけて真っ直ぐに指を伸ばした。
「虹!!」
「え?」
市竺の声と共に、俺は指さす方向に顔を向け、空を見上げた。
「うわ」
本当に虹が架かっていた。雨上がりの後に虹が見えるなんてことは別に珍しいことでもない。けれど、
市竺は虹が出ているのを凄く嬉しそうに眺めていて。その脳天気な笑顔を、そんな市竺を見ているだけで、
俺はもうどうでも良いような気がした。勢いが抜けてしまったので、肩をだらしなく下ろし、ふぅと息を
吐いた。隣で、市竺がにこにこ笑っている。
「誕生日に虹が見れるなんて、良かったな」
「おう」



 ――もう一つだけ伝えていいかな?
俺、お前のこと、大好きだ。



◆◆ END ◆◆

© raimu
100508