雨の痕




 雨が降る。降り止むことなく、俺の頬を濡らしていく。
 
 その雨は俺には酷く悲しい雨に思えた。もしかしたら恵まれない国の人々はこの雨を奇跡の雨だとか
恵みの雨だとか言うのかも知れないけれど、今の俺にはそんなこと、顔を酷く歪めて失笑してしまうくらい
のことにしか思えない。今、俺の心はとても荒んでいて、萎んでしまっている。覇気がない。立ち上が
る気力もない。つまり、俺は脱力しきっていた。

 嗚呼……この雨は神様の涙かも。
取り敢えず可哀相な人のために神様が慈悲の涙を流しているのかも。

 奇跡の雨や恵みの雨なんかは都合良くスルーして俺はそんな風に感じた。
それなら、こんな俺でも少しは救われるのではないだろうか?
なんちゃって……はぁ……。
淡い期待を持ちつつも更に大きく俺は大きく項垂れた。何を考えたってもうどうにもならないから。

 赤く腫れた頬に軽く手を添える。まだ生々しく血の固まった痕があるのが分かった。どちらかという
とずくずくとした鈍い傷みを滞らせるような傷口。腕に残る爪痕も朝起きた時点でははなかったものだ。
俺は恐ろしいものに触れるような手つきでゆっくりと首筋に指を伸ばした。
「……」

 俺は携帯を持ち歩かない正確なので正しい時間は分からないが、何十分か前。俺は傘も刺さず
に氷室のマンションを飛び出した。といっても、「飛び出した」だなんて程の勢いはなく、よろける足
取りで度々躓いていたのだが。気が付くとマンションから少し離れた公園に座っていたくらいなので
相当ふらついていたのだろう。雨が降っていたということ自体はそれ程気には留めなかった。そんな、
雨ぐらい今更どんな障害になろうか。そう思い勢い任せで飛び出した。だが、滝のような大雨に降ら
れている現状を冷静になって考えてみると、どこからそんな考えが浮上したのか自分に問いただした
いくらいの後悔に立たされているのだが。とっとと家に帰ってしまおうと思ったが、そんな身体的余
裕は自分にはなかった。気のせいか頭がぐるぐる回っている様な気もする。そういうわけで、仕方な
く公園で身体を休ませているわけ。しかし、天候は時間を増す事に悪化している。飛び出した時点では
天気晴れとでもいうような小振りな雨だったのにも関わらずこの短時間で大雨に変わり、俺の気分も
急降下に次ぐ急降下。こうなったら仕方がないと諦め、脱力しきった身体を休めるようにベンチに腰
掛けて雨を耐え凌ぐしかないようだ。

 次々と重なっていく負荷に気が滅入る。つまり、それで先程の、神がどうとか、雨はどうとかなんて、
気が狂ったかの様な思考をしてしまったというわけだ。

 俺は一段と深いため息を吐いた。

 神様の涙だって?

 本当に神様がいるんだったら、俺のことをこんなにしてまで生きながらせておくわけがない。そこ
までいかなくとも、ここまでは放置しないだろう。いや、しないで欲しい。
 
嗚呼……全くこんなことを思うだなんて相当気が滅入っているな。

 どしゃぶりの公園にはもちろん誰もいない。最初のうちは小雨だった雨がだんだん激しくなってい
き、そうなるに連れてちらほら姿を見せていた子供とその親、散歩中の老人達が消えていった。

 大粒の雨がワイシャツを濡らしていて、気持ち悪い。もう濡れるなんて感覚がないほどびしょ濡れ
だ。上着もシャツもジーパンも下着までも全て濡れている。コンビニにでも行こうかと考えたが、こ
んな格好では今更雨宿りも意味はないだろう。いや、それ以前にこんな傷だらけの気持ちの悪い奴は
どこに行ったってジロジロ見られるだけだし、場合によっては追い出されて通報だなんて事もあり得
るかもしれない。そんな考えが頭に浮かんだとき、ハッと我に返った。
「……ああ!もうっ!ほんっと気持ち悪い男だな、俺って!」
首を左右に振る。それに伴って髪に掛かっていた水の粒が四方に飛び散った。それで一瞬軽く感じた
が、直ぐにまた雨が前髪まで濡らしていく。そのまま顔にまで流れてきて、目に入らないように手で
拭った。潰えることのない雨と仕様もないその行為に虚しさを感じる。
「もぅ……なんなんだよ馬鹿、サイテー……!」

 大粒の雨。絶え間ない大量の水。未だその勢いは止まる気配を見せない。本当に俺のことを可哀想
だと哀れんだ神様の涙なのかも。結局そこに行き着く俺の夢見がちな思考回路。いっそのことこのま
まずっと俺を打ち続けていて欲しい。薄汚い自分を真っ新にして、いっそのことどこかに流していっ
て欲しい。

「もう、潮時……なのかもなぁ」
雨の音がかき消してしまうというよりは、自分でも聞き取れないほどのか細い声でそう呟いた。なん
て冷たい雨なんだろう。まるで自分一人孤独の中にいるようだ。俺は震える腕を抱き締めるようにし
て、ぎゅっと目を閉じた。
「寒ぃ……」

 もうこのまま死んでしまってもいいな……。
 誰も困らないし、悲しまない。こんな公衆の場所で死んだりしたら少なくともここの関係者だとか
は困ってしまいそうな気もするが。本当に、心の底から俺の死を悼んでくれる誰か……。頭に霞んで
浮かぶ最も親しい友達の顔、二人三人。それと両親くらいは泣いてくれるだろうか?

 雨がコンクリートに激しくぶつかる音が次第に遠ざかり、無意識にその雨音が遮断されていく刹那。
無音の中、静かな静かな空間に妙な感覚が降りてきた。そこに浮かび上がるのは何故かあいつの輪郭。
一番嫌いで、見たくなくって、それでも脳裏からは離れてくれないあいつの輪郭。ついに幻覚まで見
始めた俺は朦朧としたままその幻覚を見つめ続けた。霧のように霞んだあいつはとても神妙な表情を
見せている。形の整った眉をこれでもかというぐらい眉間に寄せて、これが現実だったら可笑しくて
笑ってしまいそうになる。それくらいぶっきらぼうそうな顔でこちらを見て佇んでいるのだ。

 幻覚を見る程俺はあいつのことばっかり脳内に置いているのだろうか。情けない自問自答には答え
は出ない。どうしてこんな幻覚を見なくちゃならない。一体どこまで付きまとうのだろうか。

いや……付きまとっているのは、俺?

「何?泣いてんの?」

――――。
 ついに幻聴までも……聞こえ始めたのだろうか?
 雨が降ってこない。しかし、止んだわけではない。俺を避けて、雨は激しく降っていた。不思議な
感覚がした。全身が麻痺してしまった様に動かない。身体が微かに震え上がりそのまま硬直した。
「……ひ、むろ……」

 雨は勿論未だに降り続いている。

「傘使えば?」
氷室は傘を俺に押し付けるように差し出した。
「……らない」
「あァ?」
「いらないって!……ばっ……」
氷室の出す底冷えしたかのような低声にビビってしまい、つい語尾を強まらせて傘を押し退ける。
 もう、こいつ怖いよ。そして俺はすっごく情けない。

   どうやら先程まで見ていた氷室の輪郭は幻ではなくリアルに存在する本物の氷室だったようだ。俺
は内心ばくばくと心臓が脈打っているのを感じたが無理矢理その感情は押し殺して平常心平常心と心
の中で呟いた。何しに氷室がここにいるのか知らないが油断は禁物だ。焦りでもしたら奴の思う壺っ
てやつだ。と強く思ってはいるのだが、氷室の鋭利な刃の如き双眼に睨まれてしまっては徐々に首が
竦んでしまうので仕様がない。少し屈んで覗き込もうとする顔から逃れる様に顔を背ける。最初に拒
絶したのは氷室の方なのに、どうして俺が心苦しい想いをしなきゃいけないんだ。まるでこっちがい
けないことをしたかのようなばつの悪さ。それに氷室はどうして俺の前にこう簡単にも姿を現せるん
だ。こんなに傷付けてよく俺の前に顔を出せるもんだ。心臓が圧迫されているかのような不快が襲っ
てきた。思い切って一言言ってやろうと思い立ったが、小心者の俺には当然出来ることではない。む
しろ逆に黙りこくって俯いてしまった。お互い無言になって気まずい雰囲気が漂う。足下に広がる水
溜まりの水が既にどっぷりと濡れたシューズに浸水してくるのを感じながら、その冷たさと一緒に氷
室の射抜くような冷たい眼差しに震え上がる。

 何の反応も返さない俺に苛立ったのか氷室はこちらに背を向けた。
「……じゃあ帰るわ」
「――っ」
逃れたいはずなのにこうなってしまうのは悪いくせだ。目尻がカァァと熱くなり、息が詰まる。気付
いた時には死にたくなるくらい無様な表情になっていた。どこかに消えて欲しいと願う反面、このま
ま俺を置いていっていかないでくれというみっともない気持ち。熱い感情が溢れてきてどうしようも
出来ない。
「う゛……う゛ぐっ……っ」
思わず嗚咽が漏れた。情けなさと苦しさが一気に溢れて訳が分からない。氷室が振り返り俺の顔を
覗き込んできたが、俺は涙で視界が酷く滲み彼の良く顔が見れなかった。
「何で泣いてんの」
「泣いてなんかないっつーの……」
「馬鹿じゃねぇ?泣いてんだろ、どう見たって」
「……」
俺はもう強がる気にもなれず、反抗する言葉も見つけられず黙り込んだ。
そんな俺の事を鬱陶しく思ったのか、氷室が苛立ったため息を吐いた。それからお決まりの舌打ち。そ
れに反応して俺の肩はびくっと跳ねてしまう。これはもう条件反射といっても良いくらいの恐怖だった。
「お前って本当に女々しいな。こんな雨の中に居たって何も変わんねぇだろ」
「うっさい!氷室ッ、帰ればいいじゃん……ここに居てくれなんて頼んでないッ」
何回か嗚咽でしゃくってしまったが、やっとのことで言えた。本当にもう居なくなって欲しい。こん
な姿誰にだって見せたくない。もちろん今だって氷室には一番見せたくない。
「そんなこと言ったって、ずっとここに居る気か?」
痺れを切らしたかのように、氷室が睨み付けてきて言った。それに対して俺もぐっと歯を噛み締め、
負けないくらいに睨み返す。
「じゃあ別の所に移動するよ!俺だって氷室の側になんかいたくないっ!」
そう言った俺の表情は多分これ以上なく酷い顔だったと思う。自慢じゃないけど、俺の泣き顔は酷
く醜い。何だかそう思っただけでまた涙だよ。
ふつふつと沸き煮える血液がどろっどろに循環しているような具合の悪さ。俺は勢いで氷室を押し
のけ、目的も無いまま公園の出口に向かって歩き出した。しかし、足を前に突き出した瞬間視界が
ぐるりと一回転した。



♦♦♦♦♦♦


 気付いたら、薄暗い部屋の中だった。俺はベットに横たわっていて、数枚の毛布が口元まで深く
被せられている。目だけ動かして周囲を探ると、不本意にも馴染み深い場所だということが分かった。
 あぁ、ここは地獄だ。俺にとっての地獄。
 何故か、氷室の部屋に逆戻りだった。いつも薄暗いが今はもっと暗い感じがする。恐らく雨がまだ止
んでいないのだろう。雨の音が遠くの方で小さく聞こえる。ベットは窓際に置かれているが、ブラ
インドが下りているので音は少しシャットアウトされているのだ。それにしても、とても苦しい。意
識が朦朧とする。気持ちが悪い。もしかしてこのまま死んでしまうのかも知れない。そう思ってしま
うほど、気分が悪い。俺は重い思考を出来る限り働かせて、何故ここで寝ているのかを思い出そうと
した。確かに公園に居て、氷室がやって来たことは覚えている。それから氷室との嫌な雰囲気に耐え
られず、彼の怒りに触れたくないから別の場所に避難しようと思って立ち上がったところまでは記憶
にある。しかしそれからは全く思い出せない。

 それにしても頭が痛い。考えすぎると余計頭痛が強くなってくるので、俺は途中で思い出すのを止
めた。しかし、そのかわり部屋の外から声が聞こえてくるのに気付く。それはこの部屋の持ち主
に他ならない、氷室の声。それを聞いて憂鬱になった。最も離れたい存在が近くにいることほど最悪
なことはないだろう。声はどうやら会話をしているらしかった。氷室の借りている部屋は新築の2LDK。
ベットのあるこの部屋の向こうには広々としたLDKになっていた。丁度仕切のドアが半開きになってい
るのだが氷室の他に人の気配は感じられないので恐らく電話をしているのだろう。ここからじゃ上手
く聞き取れなかった。
 人が苦しんでるって時にまで誰かと楽しくお喋りかよ……いい気なモンだ。一体誰のせいでこんな
目に遭ったと思ってるんだ。
 俺は一人悶々とした感情を爆発させていた。増悪と悲愴感。だけど、何よりもいやだったのは。こ
んな具合の悪いときにでさえ、誰かのことを恨めしいと思う自分だった。

 今何時か知りたくなって時計を探した。確かサイドテーブルの上に置き時計が置いてあったはず。
身体の具合からして多分そう時間は経っていないような気がした。上半身を軽く起こしテーブルの方
に手を伸ばす。思った通り時計があったのでそれを手に取った。しかし、指に思ったように力が入ら
ず時計は鈍い音を立てて床に落ちてしまった。
「あ……」
 やばい。俺は氷室のいる方に顔を向けた。さすがに音が聞こえたらしく氷室が部屋に入ってくる。
俺は身動きが取れずに、上半身だけだ起きあがった状態で固まってしまった。氷室は部屋の入り口
付近から俺を見ている。しばらくすると電話の相手が氷室との会話を催促するように「克?」と氷室
の名前を呼んだ。
「……ああ。何でもない、それよりこっち来てくれるんだろ?」
 氷室は電話を続けた。喋りながら部屋に入って来て、ベットの前まで来る。俺は氷室の表情まで
は見れずに気配ばかりを必死に追っていた。余計なことをして怒らせてしまっただろうか。氷室は
落ちた時計に気付き、少し屈んで時計を拾った。落ちた衝撃で電池が外れてしまったらしく、電池
や蓋も拾っていた。携帯を肩に挟んで会話も続けつつ器用に電池をはめていく。そしてパチンっと
した音が響くと時計を元の場所に戻した。時計の短針は多少狂っただろうが午後四時を示していた。
「だから、俺が呼んでるんだから素直に来いって。はは、どうせ暇なんだろ?」
「……」
電話越しに相手に笑いかけたのが無性に気になった。それに気付いてか、そうでないのか知らない
が氷室は俺を見て意味ありげに笑う。口の端を少しばかり吊り上げて、俺を小馬鹿にしているような
笑いだった。俺はそれに苛立ち、非常に気分を悪くした。これ以上の屈辱はない。何故なら、恐らく
電話相手は友達なんかじゃない。きっとずけずけと隙間に潜り込んでくるような発情した醜いもの。
氷室から連絡を貰っては喜々として誘いに応え、氷室を喜ばせる。
 氷室の数多なるセックスフレンド――俺を含めて。
酷い。酷い。酷い。こんなに怒りを覚えたことはない。こいつはどれだけ人を馬鹿にしたら気が済
むんだ。人を無理矢理誘っておいて、気分屋に傷付けて、雨の中放置した挙げ句、部屋に連れ戻し、
こんな屈辱を味あわせるなんて。怒りのあまり意識が飛びそうになった。動悸が速く、呼吸も苦し
い。俺はとても上半身を起こしてはいられず、悔しいが再び氷室のベットに横たわった。軽くスプ
リングが軋む。不本意にもその音は、氷室とのセックスを鮮明に思い出させる記憶の色濃い部分。
俺は短く「う゛ぅ」と唸るとごろんと方向を変え、壁側に擦り寄った。これから氷室のセフレがここへ
来て氷室とセックスをするのかも知れない。俺に見せつけるように、悪戯に他の人間を抱くのかも知
れない。
「……」
まだそうとは決まっていないのにこの先走った自虐的思考。
 ああ、もう誰か俺を何とかしてくれ。
けれど、前例があるだけにこの予想も完全に否定することは出来ないわけだけど。

 煙草の独特な匂いと氷室の匂いが入り交じった匂いがする。俺はこの匂いを嗅ぎながら少し黒っぽ
い壁を眺めているのが嫌いじゃなかった。
安心とはちょっと違うんだけど、何か落ち着くんだよなぁ……。
俺がそれを感じていると、不意に氷室の手が俺の額に伸びてきた。首筋がざっと鳥肌立ち、目を見張
る。氷室のひんやりとした冷たい手。不本意だが心地よい。
あぁ、俺ってば直ぐその場の流れに流されちゃうんだからなぁ。
どうやら熱を計っていたらしく、氷室の手は直ぐに離れていった。もう少し触っていて欲しかった
が、俺は表情には出さずに口を一文字に固く結んでいた。すると氷室が肩を揺らして笑う気配がして、
電話相手にこう言った。
「それと、買い物も頼む。ああ、そこでいいよ」
俺の意識は再び氷室の電話に戻る。買い物とはどういうことだろう?
「そうだな。取り敢えず熱冷シート買ってきて。あと風邪薬と体温計」
氷室は何食わぬ顔で淡々と追加オーダーを頼んでいく。
え……それって?
俺は背後から聞こえる氷室の台詞に唾を飲んだ。氷室が風邪をひいているわけではない。
「俺じゃないって。風邪ひいてんのは」
氷室は笑った。しかも心なしか穏やかを含んでいる様な笑い方だった。自分の思い違いかも知れな
いけれど、もしかして相手はセフレなんかじゃない?もしかして普通の友達なのかも。
「何か、さっきまで雨酷かっただろ?そん中で傘も差さずに三十分も居た馬鹿が居てよ。優しい俺
様が看病してやろうと思って」
氷室はそう言うと、先程伸ばした手を額ではなく今度は俺の髪の中にくしゃっと入れた。俺は抵抗す
る暇もなく、呆然とそれを受け入れる。髪を掻き乱す行為は、事後のことを思い出させた。氷室は
セックスをした後もこうやって俺の髪をかき回す。それが酷く気持ちよくって安心できて、ただそれ
だけで暴力や無理強いされたことを許してしまうのだ。この優しい手を失いたくないから、何をされて
もただ黙って耐え凌ぐだけ。そして、稀に今日みたいにして氷室の繋いだ手枷から逃げ出してみる。
俺はそうすることで氷室にとっての俺の存在価値を見出そうと必死になって藻掻いている。
 
 氷室の手を感じながら俺は再び泣いた。泣いたというには大袈裟だが少し涙ぐみ、嗚咽交じりの息
を上げた。
「――じゃ、他適当に考えて買ってきてくれ。頼んだぞ、じゃぁな」
携帯フラップの閉じる音が聞こえた。
「お前って直ぐ泣くんだな。堪え性がない」
背中を向けていて顔は見えないはずなのに、氷室は俺が泣き出したことに気付いていた。
「う゛ぐっ、だって、氷室が」
「俺が?」
「ひ、氷室が、よく、……っぐ、分からない」
俺がそう言うと氷室は微かに笑い声を漏らした。しかしその噛み殺したような声だけではどんな感情
も読み取れやしない。
「俺もお前が良くわからない」
「……」
続けて氷室は髪を撫でたまま、「だから面白い」と言った。
「お前、熱出して倒れたんだよ。覚えてるか?」
「そうなのかもって思った」
「危うく地面に頭を打ち付ける所だった」
ということはそうなる前に氷室が受け止めてくれたということだろうか。
「今買い物させてっから、もうちょっと寝とけ。病人のくせに目覚め良すぎだろ」
俺は身体を落ち着かせて、視線を天井に向けて真っ正面に据える。頭を枕深くに沈めるとじんじんと
頭痛が全身に広がっていった。その痛みが次第に緩和され、やんわりと馴染んでいった頃、そのまま
気絶するように眠りに落ちた。

 それから約一時間後、一人の男が部屋を訪れた。名前は緩甲斐智之。氷室の旧友ならしく、確かに親
しげな態度で氷室に接していた。どんな人が来るのかと思っていたら、意外にも見た目も中身も堅気
な人だった。ただそれは付き合っている恋人に合わせているだけで、恐らく本来の彼はもっと軟派な
格好をしているのだろう。耳に閉じかけのピアス穴が見えた。
「なんで風邪薬も持ってないんかねェ、この男は」
緩甲斐は呆れた様に氷室を見て、ため息を吐いた。次に買い物してきたのだろう某ドラッグスト
アの袋から品物を取り出しながら今度は俺の顔をにこにこ見つめ、「頼りないよねぇ」と笑った。
先程氷室が頼んでいた物の他に栄養ドリンクやゼリー等も緩甲斐は買ってきたらしい。次々に机上の
上に並べていく。それを眺めるようにしていた氷室がぶっきらぼうに言った。
「必要になるとは思ってもいなかったんだよ」
「はは……だよねぇー」
そんな会話を穏やかに交わし合う二人の間には本当に親しい者のみでしかあり得ないような空気が
漂っている。お互いを信頼し切っているような感じ。
 ……氷室とこんな親しい会話を出来る人がいたなんて驚きだ。
俺は横目で二人のやり取りをぼんやりと眺めていた。
「ねぇ、ええっと……」
「孝見」と氷室が俺の名前を言った。
「たかみ君?大丈夫?」
緩甲斐が様子を窺ってくる。俺は気怠い腕をどうにか持ち上げてそれに応えた。
「大丈夫……」
「風邪薬飲んで……あぁ、その前に何か食べた方が良いのかな。レトルトのお粥とゼリーしかないけ
ど。どっちがいい?」
そう訊いてくる緩甲斐に俺は首を傾げるぐらいの動作しか出来ず、緩甲斐は「んー?」と困ったよう
な顔をした。正直腹は空いていたが飲食する気はおきず、出来るなら食べたくないと断っても良かっ
た。氷室もじぃーっと俺と緩甲斐のやり取りを見下ろしているだけだし。
「なんだか具合が酷そうだから今はさっさと食べれる方がいいよね」
そう言って緩甲斐は俺にゼリーを差し出した。フルーツたっぷり入りのゼリー。俺はそれを見て、最後
にゼリー食べたのいつ頃だっけ?、などと考えていた。もう既に容器は開いており、付属のスプーン
を握らされる。
「自分で食べられる?大丈夫?」
「うん……平気」
俺は食欲が無かったけど、彼の善意をあしらえずそれらを受け取った。一口分すくって食べてみる。
見た目よりゼリーは酸っぱく、苦く感じた。でも乾いた喉にはとても心地よかった。
「美味しい?」
俺は何とも言えず返事はしなかった。曖昧に首を振って反応を返す。でも安心できた。この緩甲斐って
人には全然警戒心を持たなかった。氷室との関係とかはちょっと気になるけれど、悪い人ではないなと
思った。風邪で思考が十分に働いてないせいかも知れないけれど。
「食べたらこれ飲んで。まぁ、言われなくても分かるか」
俺は目の前に置かれた風邪薬のビンとペットボトルの水を見た。風邪薬の瓶は目の前でフィルムを剥が
してくれたばかりの新品だ。悪い人じゃない印象に追加して、丁寧且つ親切な人だなと思った。
「……ありがと」
俺が小さく礼を言うと、緩甲斐は虚を突かれたような顔をした。
「いやぁ〜。可愛いね、たかみ君」
緩甲斐は傍らで黙っていた氷室を見遣った。何故か緩甲斐の口元には笑いを押し殺そうとする歪みが
出来ている。俺は氷室が何かしたのかと思い不思議になったが、氷室は特に何の反応も示さず、また
も黙っているだけだ。俺はそれが少し気になったけれど、早々にゼリーを食べ終えて風邪薬を三錠喉
奥に流し込んだ。そしてそのまま寝てしまおうと思い、布団の中に深く顔を潜らせた。正直、ぼうっと
し過ぎてて考えが回らない。
「うん。寝ちゃった方が良いよ」
遠くなる意識の中、最後に聞こえたのは眠りを誘うような緩甲斐の声だった。


 首が――ズキズキする。

 氷室は噛み癖がある。有意識か無意識か知らないが、行為の後に残るのは無数の噛み痕。最中は激
しい快楽に襲われているのでさほど囓られたという感覚は無いのだが、後になって恐ろしいほどくっ
きりと痕になって残っている。その痕はピリリとした痛みと疼きを伴い、赤く歯形を残すほどだ。今
回も氷室は俺の首筋に噛みついた。しかし、それはいつものとは違う痛み。首にズキンとした一層
強い痛みがはしった。あまりの痛みに抉られたのかと思うほどの衝撃だった。俺はその痛みに訳も分
からず恐怖し、「また氷室が俺を囓ったんだ」と無意識に思った。絶え間なく波打っていた快楽はそ
の瞬間遮断され俺は青ざめた。よく見ると氷室の口から赤い血液が一筋を作って流れている。俺は痛
みのあった首筋を押さえた。見ると血が付いていた。俺は背中からぞわぞわとした震えが駆け上って
来るのを感じ、氷室のことを思いっ切り突き飛ばした。よく見ると氷室は声もなく笑っていた。それ
は冷たい冷たいとても綺麗な微笑みだった。

 そうして俺は逃げたのだった。氷室から遠ざかるべく真新しいマンションの階段を転げ落ちるよう
に。



♦♦♦♦♦♦


「たかみ」
たかみ、ともう一度だけ聞こえた。
この声は氷室?
俺は意識を覚醒させ、目を開く。氷室がベット近くに椅子を寄せて座っていた。声で想像した距離感
より顔が案外近くにあって少しだけ驚いた。ベットライトだけが小さく灯っている。
「孝見、水」
氷室に力強く背中を支えられると楽に上半身を起こすことが出来たが関節が少し軋んだ。氷室から
コップを受け取り、中の水を喉の奥に流し込む。ふぅ、と息を吐くと幾分気持ちが軽くなった気が
した。薬が効いたのか、めまいや頭痛も大分治まったようだ。
「少し魘されてたみたいだな」
「……うん」
……御前のせいでな。
俺は氷室の口元を見た。当然赤い血筋は残ってはいなかった。氷室の白くて細い顎に滴る一筋の血は
あまりにも美術的で美しいとも感じたのだが、その姿は拭い去られている。
 俺の血で染まった氷室――。
そう思うと言いようもない感動が沸き上がってくる。この感情を何て言葉にすれば良いのか分からな
い。俺は力無い震えた指を伸ばし氷室の唇と顎の辺りに触れた。
「何で噛むの?」
訊きたいと思ったから俺はそう訊ねてみた。不思議と平常心でいられたのが逆に可笑しいぐらいだが、
このままだと氷室ともきちんと話し合いが出来そうで良かった。氷室だって病人に手は出さないとい
う人徳的対応を心得ているだろうし。氷室は俺の伸ばした手を掴むとそのまま強く握り込んだ。痛い
と感じたが言葉には出さず俺は眉を寄せて氷室の言葉を待つ。
「最初は……噛むのっていいものなのかどうか試しただけ」
氷室はそう答えた。
「どうだった?」
「……柔らかい感触と血管があるのが分かる」
俺は少し戸惑った。構わず氷室は続ける。
「結構気分いいんだよな。試してみる?」
そう言って氷室は自分の腕を俺の方に伸ばした。白くて真っ新な腕。俺よりも簡単に痕が残りそうな。
「……俺が氷室を噛むの?」
氷室の瞳がそうだと言わんばかりに嗤った。俺は暫く彼の腕を見つめていたが、空気が抜けるように
ふっと息を吐き、力無く笑ってしまった。
「そんなこと出来るわけないだろ。出来ればもう噛まないでくれない?」
「痛いのか?」
「当たり前だろ。俺いっぱい血ぃ出たんだよ」
『いっぱい』かどうかは分からないが結構血は出た。血管が切れたではないにしても皮膚が裂かれ、
ずくずく痛みを伴って、血はワイシャツの襟部分を染めるくらいには。
「あと、……鉄の味がした」
「血だもん。鉄の味くらいするでしょ」
氷室は暫し黙って、言った。
「知ってる」



♦♦♦♦♦♦


「あ……あぁ、ん」
 氷室の指が胸の辺りをまさぐってきた。感度のよい突起の部分を上手く指で弾いたり、摘んだりして
弄ぶ。俺は刺激の度に甲高い声を上げて反応しては氷室にいい顔を見せてよがっていた。
「あっ、ああぁ……っはぁ」
息を詰めては強引に吐いての繰り返しで喉がヒューヒュー音を立てる。氷室の巧みな指の滑らせ方が
何よりも俺は感じてしまって、もう下の方も限界に近い。
「ほら、そうやって仰け反るからここがこんなにも露わになるんだ」
氷室が最初何を言っているのか直ぐには理解できなかったが、首筋のことを言っているのだと気付いた。
確かに仰け反ると首筋は見事に突き出てしまう。
 それは、つまり俺が悪いということなのか?
「かじりつきたくなる」
そう言う氷室は不謹慎にも幼い様に感じられた。
「うあ!や、やめろよ絶対っ……あぅ」
噛む代わりに首筋を舐められた。浮き上がった筋をなぞるようにして舐め上げ、耳裏を執拗に懐柔さ
れる。くすぐったさと前の方にびくびくと伝わる快感とで俺は喘ぎを押さえることが出来なくなって
いた。
「もッ……あ、ン!」
俺は自分の声があまりにも恥ずかしくて手で塞ぐ。すると息が苦しくなりまた一層甲高い喘ぎが出で
しまうのだが、「あんあん」だなんて女みたいに鳴くのは嫌でそうする他無い。
「痕、出来てるな」
「いッ!」
氷室が首筋の傷に触れると、微かに電流にも似た激痛が走った。それは間違いなく氷室自身が付けた
例の噛み傷であった。
「ここ、痛いのか?それとも、気持ち良いのか?」
「なッ、痛いに決まってるだろ!」
俺は氷室をこれでもかというぐらい睨んだ。だが彼は笑って返す。
「ここ……感じてんじゃないの?」
「もっ、触るなよ」
確かに傷みと快感は紙一重の感覚で、俺は首筋のその傷に触れられることによって全身を堅く縮小さ
せてしまうほどの気持ちよさを感じていた。ぴりりとした傷みの中に微かに残る刺激があって、俺は
貪るようにそこに吸い付く。そんな俺を氷室は見抜いているのだろうか。
「ほら、ここ触っただけでもうこんなに堅くなってんじゃん」
「ああぁ……氷室っ、俺、もぅ」
氷室の腕に縋るようにして甘い吐息を吐き出す。股間のものがもう大分前から絶頂を期待して疼いて
いるのだ。早く楽にして欲しい。早く気持ちよくなりたい。もうそれしか頭になくなって、必死で氷室
に懇願する。
「ひ、むろぉ……なんか俺、すごく熱い……」
「……まだ具合悪いんだろ。熱は下がったみたいだけど」
 ……そう思うならこういうことをするなっつーの。
氷室は俺の両足の間に入り込み後ろの方に指を這わせた。それを感じた俺はきゅっと目を瞑り、身を
捩る。もう慣れてしまったはずの快楽だが反応をせずにはいられない。
「もう柔くなってんじゃん。ほんと、淫乱」
「ぅ、っさい」
霰もない姿で必死になって悪態付く俺を見て氷室がくつくつと笑い声を漏らす。それに合わせて震え
る喉仏のなんと艶めかしいこと。氷室はすごく綺麗で白い肌をしている。服の下の、普段日に当たら
ない部分は特にそうだった。体格も細身で筋肉の筋が滑らかに沿って流れている。俺なんかとは違っ
て身体的にも抜群に格好良い。氷室は本当に人間離れした奴で、正直そういう所は羨ましく思ってし
まうのだ。
「何?」
俺の視線に気付いた氷室は手を止め俺の顔を窺ってきた。見とれていただけに視線がばっちり合って
しまい、恥ずかしくて顔を背ける。
「べっつに……」
「ふぅん?じゃあ、続けるけど」
「あっ」
指の激しい抜き差しの感覚もなくなってくる頃、不意に規模の大きいもので突かれる刺激があった。
「ひゃっ!あ、ああぁ」
それが氷室のソレだと瞬間的に理解した俺は突かれるままに腰を揺らしていた。
「あっああっ…う゛っ、」
氷室の動きに合わせて俺の身体もゆさゆさと揺れる。その動きは出来るなら客観的には絶対見たくな
い。俺はこういう時、とても酷く情けないと思うから。淫らに腰を揺らす姿からは顔を背けたい。け
れど、快感に弱い俺には抵抗する力なんかなくて。
「あああぁ」
起伏のある喘ぎ声を上げて俺は絶頂を迎えた。びくっと身体が飛び跳ね、精液が飛び散る。見なくと
もそんな一連の流れが脳内に映し出された。そして再び熱を持ち始めるのが、嫌でも分かってしまう。
「も、もういい……」
身体を捻り後ずさるようにして氷室の動きを制した。それを怪訝に思ったのか氷室が手を止め、こち
らを窺うように見据えてくる。俺の手は弱々しい手つきで宙を漂い、自分と氷室の間に壁を作るよう
にゆらゆらと揺れた。あまりにも欲深い自分の身体の変化を氷室に晒したくない。快感を求めて暴れ
狂うソレを隠すようにして脚を閉じる。そして口元だけに乾いた笑いを浮かべて俺はこんな言い逃れ
をした。
「か、風邪移すといけないし」
「……」
「……まだすごく熱っぽい、し」
つい語尾が弱々しくなり、最後の方は囁きのように小さくなる。こんな台詞で氷室が納得するすると
も思えないが。これは弱々しくも、情けなくも、俺のささやかな抵抗。それに対して氷室は一体どん
な反応を見せるのか。
「今日一日付きっきりで看病したんだ。そのお礼くらいしろよ」
「なっ」
――たったの半日だろーがっ!しかも風邪の原因はほぼ御前にある!
と叫びたかったが、その前に腕を強引に引っ張られたので姿勢のバランスを保つので頭が一杯になっ
てしまった。あえなく文句は次なる快楽への揺さぶりに掻き消される。

 氷室はその後も散々に俺を弄り倒し、挿入を繰り返し、幾度と無く満足を得た。のだと思う。俺は
途中からの記憶が完全に途絶えていて、恐らく気を失ったか、身体の不調とあまりにもな激しさに呆
けてしまったのだろう。



 早朝、ブラインドを開けて外を見遣ると雨は止んでいた。その代わりに空にはまだ少し暗雲が浮遊し
ている。朝特有の肌寒さと清らかで清潔な空気を感じながら俺は膝を抱えてその間に頭を沈めた。
 結局……一夜を過ごしてしまった。
俺はまたもや流されてしまったことを後悔した。後悔もする意味がないほど愚かだったことは明白だ。
当の加害者である氷室は姿を消しているし、早くも放置されているではないか。

 腕を見ると新たに噛み痕が付いていた。丁度肘の内側。よく注射針を刺す部位である。白い柔肌は
内出血をおこし、濃い紫色をしていた。
「……」
昨晩「もう噛まないで欲しい」と申請した覚えがあるのだが、却下されてしまったようだ。

 氷室の言った科白を思い出す。何か重圧な苦悩を背負い込んだの如く顔を顰めながら言った言葉。
氷室は噛むことで何かが満たされている?彼は噛まれることの苦痛を「知っている」と答えたのだ。
普段と変わらない冷笑のはずなのにやけに焦っているような、無理をしているような切ない表情。
「……氷室、」
氷室はいつも俺に無理強いを強いり傷跡を作らせるくせに、稀に俺以上に痛々しい顔を見せる。本
当に極稀にだが、そんな氷室を見るのは心臓を鷲掴みにされたように苦しい。当然俺は氷室がどう
してそんな顔をするのか分からないし、知らないし、検討も付かない。謎と言えば最大級の謎なの
だが俺はその理由を訊いてみようと思ったことは一度もない。訊いたってどうせ何も話してくれは
しないだろうし、単に俺の勘違いかもしれない。本人には心覚えのない無意識に作られる表情なの
かも知れない。
「……過去のこと?」
――氷室の過去――。
俺の存在しない氷室の素性。俺の居ない頃の氷室。そこまで考えて、俺は氷室のことを知らな過ぎ
るんだと改めて知った。今度は知恵熱で倒れそうだ。ブラインドの隙間から屈折した陽光が差し、
布団の上に一筋のラインが出来る。

 雨が上がっても、俺達の行く末は決して見通せない。

-FIN-







2009/08/22〜100412